インドネシアの記憶-オランダ人強制収容所-
林えいだい著
「強制収容所」・・・と聞くとアウシュビッツを思い浮かべる人が多いだろう。しかし、第二次世界大戦時、米国においては日系人が、そしてアジアにおいては日本軍によって多くの外国人が、そして今なお北朝鮮において多くの人びとが非人道的な取り扱いをこの収容所なるものにおいて受けてきた。「善良な市民」と言われる人々が、一旦戦争が始まると人間の奥底に潜んでいる差別の心や罪なるものが人格を変え、実に恐ろしい行為をすることを私たちは人間の歴史を通して知らされている。
調正路氏は現在バプテスト教会の牧師を引退し、今なお体の許す限りご夫妻で日本全国の教会や施設で様々な奉仕を続けておられる(日蘭修好400年の2000年12月、当教会の礼拝でも奉仕)。しかし決して戦争の時のご自身の話を美化し自己正当化してはおられない。長い間ご本人の口からもこの出来事はあまり語られることはなかった。この林えいだい氏の本に載った出来事は戦後、オランダ人元捕虜が調氏との再会を願い日本を訪ねて来たことなどによって、徐々に知られるようになったものである。
林氏のこの本において中心的な人物であるアニーさんは、父親を長崎市香焼にあった福岡俘虜収容所第二分所で亡くし、今なお詳しい死因の詳しい情報も遺骨も手にすることなく苦しみに耐えてこられた。アニーさんご自身もインドネシアの収容所で日本人から非業の仕打ちをされたことから、戦後長く日本人に対して恨みと複雑な感情を抱き続けて来られた。しかしながら、キリストの十字架における赦しの愛に触れて、日本人を許すだけでなく、現在オランダ在住日本人をサポートし愛を示しておられる。
私たち夫婦も数年前オランダをある会合で訪れた際、アニーさんご夫妻とお会いする機会が与えられた。そのとき、日本人の犯した罪を許して欲しいと言葉をかけさせて頂くとアニーさんが次のように口を開らかれた。 「いいえ。オランダ人はかつて長崎出島において日本人の遊女を買い。島原の乱においては幕府と共にキリシタンに船から砲撃をしたという大きな罪を犯しました。どうぞ私たちのことこそ許して下さい。・・・」 私は言葉に言い表せない感動を覚えると共に、平和への糸口を感じたことを忘れることは出来ない。「人間はみな罪人である」との聖書の言葉を出発点にして、私たちが世界の人々との関係を持つことを神は願っておられるのではないだろうか。
このアニーさんの戦争体験をはじめ、いったい日本がアジアで何をしたのか。私たちは歴史から目を背けることなく学び、語り伝えていく責任が与えられている。長崎は被爆地として有名であるが、この外国人捕虜たちのこと、そしてその家族の痛みと苦しみについても、語り続ける使命がこの地には与えられているに違いない。今回は以下に、長崎と縁の深い出来事について引用させて頂くが、ぜひとも林氏の著書を全文読んで何がこの長崎で行われたのかを知って頂きたいと願うものである。 Y. Tomono
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「インドネシアの記憶 -オランダ人強制収容所-」
(林えいだい著 燦葉出版社 定価2000+税)より許可をえて一部転載しています。
なお、無許可での転載はご遠慮下さい。
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第三章 「異郷の虜囚」
クリスチャン所長
福岡俘虜収容所第二分所(長崎県香焼町)に収容されていた、元捕虜のマリウス・イエンツさんをオランダのホーリンチエムにあるブロンベーク王立退役軍人ホームに訪ねた。彼はアニ-さんの父親デフリースさんと一緒にマカサル俘虜収容所に収容されていた。同じ船で日本へ移送され、第二分所で生活を共にしたことで、デフリースさんのことをよく知っているのではないかと思ったからである。オランダ海軍の巡洋艦の乗組員だったという彼は、ジャワ海での日本海軍との海戦の模様を話してくれた。
「インドネシアの俘虜収容所の日本軍は、話にならないほどひどかった。それに比べると、長崎の第二分所のキャプテン調はヒューマニストだった。敵国の捕虜を人間として扱わない日本軍の中にあって、こんな立派なキャプテンがいるとは信じられなかった。彼は敬虔なクリスチャンで、休日のミサを許可してくれ、最初のクリスマスには長崎市内から日本人の牧師を呼んでくれた。殺伐たる日々の中で、希望と生甲斐を与えてくれた。もし生きていれば会いたいものだ。」
収容所内にある風呂場でクリスマスを祝ったこと、苦しかった川南造船所の労働と、食糧不足で栄養失調になったことを懐かしそうに話した。 その翌日、ヘルマンさんの運転する車で、エメロールド市に、ドルフ・ウインクラーさん夫妻を訪ねた。そこにはオランダ空軍の元パイロットだったベルリンデンさんがいた。彼はこれまで三度ほど訪日しており、わたしが北九州市内を案内したりしていたので親しかった。 彼はアニーさんの父親デフリースさんと一緒の船で、インドネシアから第二分所へ移送されている。 川南造船所で働いていたが、一九四四年(昭19)になると米軍の長崎空爆と、造船所の資材がなくなったこともあって、福岡県の三井山野鉱業所へ移され、坑内で採炭をした。 戦後、オランダに帰国しても捕虜時代のことが忘れられず、毎夜夢にまで見たという。 ベルリンデンさんは初めて訪日した時、「林さん、長崎の香焼島の収容所のキャプテン調中尉を探してくれないか。生きているうちに、お会いして、お礼を言いたいんだ」と私に頼んだ。「銃殺命令 BC級戦犯の生と死」(朝日新聞社)と、「筑豊俘虜記」(亜紀書房)を出版した後だったので、関係者にあたることにした。
福岡俘虜収容所では、戦後BC級戦犯で五人が死刑になっている。そういう関係もあって、当事者は口をつぐんで収容所時代のことは話してくれなかった。 その後、「戦時外国人強制連行資料集Ⅰ~Ⅳ」(明石書房)を編纂するために長崎へ行った際、福岡俘虜収容所第十四分所(長崎市幸町)に勤務していた田島治太夫さんに会うことができた。調さんの消息をたずねると、彼は香焼町の第二分所から、長崎市幸町の第十四分所長に転任し、田島さんの上司だったと教えてくれた。
「調所長は短期間で八幡に転任しましたが、クリスチャンなので捕虜達からは信頼されました。大浦天主堂に捕虜を引率して礼拝に行きましたが、あの当時、捕虜と一緒に教会に礼拝に行くなんて、陰では非国民だと批難されていました。」 結局、調さんの戦後の消息はつかめなかった。二年後、戦後五十年を記念して、オランダから三十人の元捕虜と遺族が日本を訪れ、その中にベルリンデンさんもいた。私は田島さんから聞いた話を彼に伝えた。
「戦争はいつ終わるのか、このまま日本で死んでしまうのではないか、毎日のように死んでいく戦友たちを見ると絶望的だった。そんな時には神に祈るしかない。クリスチャンの調さんは、私たち捕虜に祈りの場を与えてくれ、心の支えだった。毎年、クリスマスになると、彼のことが思い出される。会いたいものだ」と、ベルリンデンさんは改めてまた言った。彼は筑豊で働いた三井山野鉱業所跡を訪ねた後、長崎の香焼町へと向かった。
その後ウインクラーさん宅でお会いすると、病後だということでずい分痩せて見えた。
「もう日本には行けないが、香焼島にあった俘虜収容所に三度行ってきたのでもう思い残すことはないです。 長崎の町で調さんと会えないか、とずい分探したものです。あなたが帰国してもし会えたら、私がお礼を言っていたと伝えてください。私が調さんにこだわるのは、オランダで大きな事件があったからです。日本人のあなたには直接関係のないことですが」 と、悲痛な顔をしてしばらく無言だった。
「私が調さんに会いに行く気になった、もう一つの大きな理由があるんです」
そこに集まっている人たちは、ベルリンデンさんが私に言おうとしている内容が分かっているようで、「もうその話は止めたほうがいい」と言った。
「これも調さんのお陰で、命が助かったんだからな。林さんには知っていてほしい」
ベルリンデンさんが話そうとするのを、みんなが制止するのは何故か。私はその理由が知りたかった。
インドネシアのバタビア(現ジャカルタ)に住んでいたベルリンデンさんは、高校生時代の一九四一年(昭16)十二月六日にオランダ航空隊に志願した。オーストラリアでパイロットの訓練を受け、バンドンに輸送船で行く途中、バースの近海で攻撃を受けて捕虜になった。セレベス島のマカサル収容所には、千五百人が収容されていた。一九四二年(昭17)十月、浅間丸で長崎港に移送され、千二百人は香焼町の長崎第二分所に収容された。毎朝七時に収容所を出発し、約三十分かかって川南造船所に通った。
造船所での仕事は軍艦の建造で、ドリルで鉄板に穴を開けたり、船のペンキを塗ったり重労働だった。日本式の米飯は、パンが主食のオランダ人にはなじめず、野菜と蛋白質が不足して栄養失調でふらふらしていた。それを見かねて親切な日本人職工の班長が、自分が持ってきた弁当をベルリンデンさんにそっと差し出して食べろと言った。その弁当を衰弱している班員七人で分けて食べた。
それを見ていた別の班の捕虜の一人が、収容所に帰ると監視兵に密告した。監視兵の下士官は七人を呼び出すと、建物の壁に両手を上げて立たせ、野球のバットで一人ひとりお尻を叩いた。
「何故もらって食べたか? 誰にもらったのか?」 激しい拷問が始まった。収容所の規則で、日本人から食糧をもらって食べることは厳禁されていた。もしその弁当をくれた人の名前を言うとすべてがバレてしまうので、七人は黙否した。下士官は盗んだのではないかと疑い一層激しく叩いた。叩き疲れて一息入れたところへ、調中尉が副官と一緒に回ってきた。
「あれだけ暴力を振るうなと言っているじゃないか! 叩くお前が悪い!」 すごい剣幕で怒り、下士官の拷問を止めさせた。長時間にわたって同じ場所を叩かれると、そこの筋肉はかちかちに堅くなる。一歩も歩けなくなり、医務室で皮膚の破れたところを治療してもらった。誰が七人を密告したのか、戦後、オランダに帰国してもずっと復讐しようと思い続けた。一人の海軍の水兵がその犯人だと分かった。いまから四年前、その水兵は仲間の一人から殺された。
「もしあの時、調所長がこなかったら、わたしたち七人は叩き殺されていたに違いないんです。叩かれた上に営倉十日も入れられると、水もわずかしかくれないので飢え死にします。わたしには助けてもらったご恩があるのです。」 ベルリンデンさんが、何故三回も来日して調さんを探そうとしたのか、その理由がやっと分かった。戦後、五十数年も経ったのに、なおかつ戦争の傷を引きずって生きている元捕虜たち。その事件のことを聞いて、わたしの心は凍りついてしまった。オランダから帰国して教会関係者に会ってたずねると、調さんは福岡市早良区に住んでおり、牧師として全国を伝道のために回っていることが分かった。
調正路さん(85歳)は、早良区のマンションの九階に清子夫人(84歳)と二人で住んでいた。戦後、北九州市小倉区の西南女学院で聖書と社会科の教師をしていたが、一九五五年(昭30)、沖縄返還前の首里に赴いた。
「イエス・キリストの導きを受けて、神様が沖縄に行けと言われたから」
沖縄は日本のために大きな犠牲を払った後で、調さんの所属する日本バプテスト連盟が、彼を宣教師として派遣したのだった。首里は沖縄戦の激戦地で、軍司令部の後にはまだ遺骨が散乱していた。那覇で二十五年、石垣島で十年伝道した後、一九九〇年(平2)三十五年振りに福岡へ帰ってきた。腹話術を習ったのは五十五歳の時で、沖縄から帰ってすぐ入院して心臓手術をした。病院で考えたことは、腹話術で信仰を広めることはできないかということだった。調さんの腹話術の子どもは「ジュンちゃん」、清子さんの子どもは「チーちゃん」、夫婦で全国の老人ホーム、保育園や幼稚園、教会などを回っている。
「まだまだ現役ですから」 と胸を張るが、体力の衰えはどうしようもなく、飛行機と列車での移動は限界にきているようだ。 調さんは福岡県飯塚市の生まれで、父親は市内で医院を開業していたが、中学生の頃一家は大阪へ引っ越した。 姉さんに誘われて教会に行くようになり、そこではじめてキリスト教と出会い、キリストはどういう人なのかを知った。多感な青年には牧師の一言一言が神の声に聞こえた。この方のために自分に与えられた人生を送ることを神に誓った。
「人を救うために自分の命を捨てたキリストの愛に感銘を受けた」と調さんは言うが、それ以後日曜礼拝を欠かすことはなかった。調さんは牧師になるために京都の同志社大学神学部に入学した。日中戦争が始まった翌年(昭13)、同志社大学を卒業すると、清水安三さんが中国北京市で長年にわたって経営していた崇貞女学校の日本語教師及び北京日本人キリスト教会の伝道師として赴任した。清水安三さんは、戦後、中国から引き揚げてから、東京で桜美林学園を創設した人である。
調さんは、北京滞在中、徴兵検査を受けて甲種合格、郷里の福岡の部隊に入隊すると幹部候補生となって、旧満州の奉天予備士官学校に入学した。見習士官となって福岡西部第四十六部隊に帰り少尉に昇級した。 西部第四十六部隊はビルマ攻略のために、積部隊を編成して一九四二年(昭17)一月に出動することになっていた。父親が牧師だった妻の清子さんは、長崎の活水女学院を卒業すると、アメリカの大学で宗教教育を専攻して、一九三九年(昭14年)に帰国しており、一九四一年(昭16年)十二月に調さんと福岡で結婚式を挙げた。積部隊編成の時、調さんは中隊長に向かって出動を志願した。 「お前は急ぐことはない。新婚早々戦場じゃ女房がかわいそうだ、いいから残れ」 中隊長は編成から調さんを外した。戦時体制のあの時代、いきな計らいをした中隊長もいたものだが、彼も調さんと同じ幹部候補生出身だった。
「ニイタカヤマノボレ」の暗号電報で、一九四一年(昭16)十二月八日、真珠湾攻撃が敢行された。太平洋戦争が始まった。本間雅中将の第十四方面軍はフィリピンへ、今村均中将の第二十六方面軍はオランダ領東インドへ、山下奉文中将の第二十五方面軍は、シンガポール作戦を敢行した。日本軍は優勢な兵力を擁し、東南アジア全域で電撃的に進攻した。世界四大要塞の一つといわれたシンガポールを、翌年の二月十五日に陥落させた。イギリス軍が無条件降伏した時、約六万人が捕虜となった。東南アジア全体でのおびただしい捕虜を、どのようにして管理するか軍は頭を痛めた。十月一日、陸軍省令第五八号で「俘虜派遣規則」が公布され、捕虜の収容、処遇、使役について、一切軍が管理することになった。十二月二十七日、政府は勅令で「俘虜情報局」を新設した。これは陸軍大臣の直轄機関で、陸軍省の外局だった。続いて「俘虜収容所令」が出され、全国に俘虜収容所が設置されることになった。この日、陸軍大臣東条英機は、新任の俘虜収容所長会議で次のように述べている。
「我が国は捕虜に対する観念上、その取り扱いに於ても欧米各国と自ら異なるものあり。人道に反せざる限り、厳重にこれを取り締まり、且つ一日といえども無為徒食せしめることなく、その労力特技を我が生産拡充に活用するように。」 東条は、捕虜といえども無為徒食させることなく、労働力として使うことを訓示している。この時点で正式に、捕虜を労働力として国内の事業所に従事させることが決定された。
福岡俘虜収容所第二分所
捕虜がはじめて日本へ移送されたのは、一九四二年(昭17)九月二十三日、八幡仮俘虜収容所であった。続いて二十五、六日の両日、四隻の輸送船で五千百三十人の捕虜が南方から移送されてきた。船中で下痢患者が発生して、上陸後、彦島検疫所、小倉陸軍病院、門司キリスト青年会館、小倉市立伝染病院に入院させた。小倉陸軍病院だけで五百二十五人のアメーバ赤痢患者が隔離入院し、一ヵ月で四十九人が死亡している。八幡に捕虜が移送された一ヵ月後、調さんは西部軍司令部から、長崎港に千二百人の捕虜が到着するので、迎えに行ってそのまま八幡仮俘虜収容所長長崎分所に移送するよう命じられた。
香焼町にある長崎分所は、バラック建ての粗末な建物だったが、宿舎、事務室、炊事場、風呂場、便所、衛兵詰所は揃っていた。突然、千二百人の捕虜管理を命令されて、調さんは面食らってしまった。片言の英語しか話せないので、戦前、神戸の商社で働いていたというオランダ人のブディング少尉を通訳兼秘書に使った。日本国内で捕虜を管理したのは、第一次大戦時のドイツ人俘虜収容所の事例があっただけである。生活習慣や文化が違う彼らを管理しながら、労働力としてどのように効率的に使うか頭を痛めた。考えた末に彼が結論として出したことは、捕虜の自主管理に任せることだった。香焼島は小さな島で、捕虜が逃亡する心配はなかった。日本そのものが島国なので、逃亡して外国に行くことは不可能だった。長崎分所の職員は分所長を入れて約二十人、大村連隊から二個分隊が一ヵ月交替で監視兵として派遣されてきた。分所長が直接命令するとトラブルが起こるので、捕虜たちの軍組織を利用することにした。幸いにアメリカ人、イギリス人、オランダ人の少佐が三人いて、その下に将校が二十四人いた。
調さん自身は職業軍人ではなく、幹部候補生から見習士官、それから少尉に任官したので、軍隊の専門教育を受けたわけではない。ハーグ条約やジュネーブ条約などの国際条約での捕虜の取扱規則などの知識も持っていない。日本軍から示された俘虜取扱規則を将校に示し、規則通りに管理すると伝えた。
ジュネーブ条約に従って、捕虜の将校たちの川南造船所での労働は免除して、収容所内の諸任務に当たらせた。大村連隊からやってくる監視兵は、捕虜を頭から敵視して暴力を振るった。捕虜は如何なることがあっても保護されるという観念が彼らにはなかった。軍人訓の「生きて虜囚の辱めを受くることなかれ」が徹底していて、捕虜を全く人間扱いをしなかった。分所を出発して捕虜を川南造船所の係に渡すと、そのまま引き返して夕方受け取りに行った。一旦分所を出ると、途中で監視兵の暴力行為があっても、収容所側には一切分からなかった。収容所内を巡視する監視兵が、病気で寝ている捕虜の私物を奪うことはよくあった。捕虜の将校から苦情が出ると、調さんはすぐ調査して捕虜に返させた。
「捕虜たちよりも、むしろ日本の監視兵のほうに問題があった」と、調さんは言った。
全国的に食糧事情が悪くなると、川南造船所から支給される米の量が減り、当初の計画だった千八百カロリーを割り始め、栄養失調のために出勤率が非常に悪くなった。労働に耐えられない為にサボタージュしたり、仮病を使って休む傾向が出てきた。調さんは体の不調を訴える捕虜を全員、オランダの軍医に診断させた上で、就労かそれとも休業かを決めさせた。軍医が診察すると、病気か仮病かはすぐ発見されたという。それでも長崎分所の捕虜の食糧補給が、他の収容所と比較して恵まれていたのは、川南造船所が軍需工場に指定され、海軍の軍艦などの建造をしていたことによる。陸軍に比べて海軍の食糧はかなりよかった。
調さんがクリスチャンだという噂は、たちまち捕虜の間に広がったようだ。捕虜たちは日本に移送されてきて、二ヵ月後に最初のクリスマスのミサ(注:カトリック教会ではミサ・プロテスタント系教会では礼拝と言う)を行った。これは日本国内の俘虜収容所では異例なことで、調さんが分所長であったから可能だったのだろう。長崎市の聖公会の教会から牧師を呼んで、クリスマスを祝った。捕虜の中にも神父や牧師がいて一緒に祈りを捧げたのである。捕虜たちにとって、異郷でのクリスマスは末永く心に刻まれたであろう。英語は敵性語いわれ、中学校では英語授業が禁止されていた時代である。そうした排米英の意識の高い時代に、捕虜と一緒にクリスマスを祝うなど考えられないことだ。
「人間としての人権を重んじて、敵国人としてではなく、みんな一様に人権を守り、私は平等につき合ってきた。捕虜になって異国の日本に連行されてきた立場の人たちだけに、彼らができるだけ過ごしやすいように、私がお世話してやることに心がけました。捕虜といって特別に差別したことはない。時期がきたら無事に祖国に帰らせてやろうと、ただそれだけを神に祈りました。場合によっては自分が逆の立場になるかも知れないし、ただ人間として付き合っていただけ。」
調さんは謙虚に語るが、当時としては相当の勇気が要ったのではなかろうか。
一九四三年(昭18)一月一日、正式に福岡俘虜収容所(菅沢亥重大佐)が発足すると、香焼町の長崎分所は、第二分所となり北野寿夫少佐が分所長として赴任してきた。調中尉は副分所長として、北野少佐を補佐することになった。一九四三年四月、長崎市幸町に第十四分所が新設され、調さんが分所長として赴任することになった。それを知った捕虜の将校たちが驚いて、北野分所長に抗議したが受け入れられなかった。離任するとき、調さんはハワイ出身のアメリカ人フジタ軍曹に将校たち二十七人の似顔絵を描かせ、将校たちはそれぞれにサインして別れを惜しんだ。
四月二十日、幸町の第十四分所には約三百人のオランダ人が移送されてきた。国籍はオランダであるが、大部分がインドネシア人だった。第十四分所はもと紡績工場だったところで、赤レンガの建物だった。捕虜の多くは栄養失調とアメーバ赤痢に罹患していた。長い船旅の疲れもあって、到着後一ヵ月以内に大勢の死者が出た。食糧不足の上に患者に与える医薬品がなく、村松軍医中尉と調分所長は市内を走り回って探した。
「薬さえあれば助かったものを」 今でも調さんは当時のことを思って胸を痛めている。捕虜の将校はオランダ人で、長崎の三菱造船所で働いた。後に新しく入所した捕虜は、南方から移送中に長崎県野母半島の沖で、アメリカの潜水艦に魚雷攻撃を受けて沈没、付近の漁師に救助されて長崎の憲兵隊に送られた。彼らは市内で休養後、第十四分所に収容された。友軍であるアメリカの潜水艦の魚雷攻撃を受け、さらに二年後の八月九日の原爆投下によって、二重の被害を受けることになる。
憲兵隊の取り調べ
一九四三年(昭18)八月中旬、調さんは第三分所に転任することになった。第三分所の捕虜は八幡製鉄所で働いていた。そこでの調さんの仕事は、十月に山口県下松市に新設される福岡俘虜収容所第七派遣所の開設準備だった。日立製作所笠戸工場で、オランダ人捕虜百五十四人を働かせるためだった。間もなく調さんはそこの所長として赴任した。笠戸工場は機関車と貨車、客車を製造していた。はじめて捕虜を働かせることになったこともあって、工場側にとまどいがあったようだ。開設を急いだために収容所の設備は悪く、衛生的にも問題が多かった。すべてオランダ人の捕虜だったが、到着するとすぐ調さんに設備の改善を訴えるようになった。彼はさっそく工場側と交渉した。
「捕虜も人間じゃないか。例え敵国人であっても囚われの身だ。健康で生産させるためには、ある程度の栄養ある食物を与える必要がある。米の量も少ないし野菜も不足している。時には肉とか魚などの蛋白質も与えなければならない。 会社側の責任で食糧の補給を考えてもらいたい、もしできないとすれば収容所で探して捕虜に与えるが、それでもいいか」
調さんは市場に行って直接野菜や魚などを手に入れた。陸軍省俘虜管理部では、捕虜を工場や炭坑などで労働させた場合、賃金を支払うように決めていた。「使用主より賃金として一日に付き一人一円を支出せしめ、うち六十銭を収容所に納付、四十銭は地方長官監督の下に蓄積せしめ、必要なる福利施設に充当し、または国防献金を長崎市為さしむるとす。」 国内全体に物資が不足しているので、集めるのに、苦労があったが、軍という背景のお陰で十分ではないが手に入れることができた。インドネシア系の捕虜は米食に問題はなかったが、オランダ人はパン食を要求した。小麦粉を手に入れると、捕虜の炊事班にパンを焼かせて食べさせた。週に一度の休日を会社側に要求して、その日だけは捕虜を休養させた。戦時体制になり、勤労報国隊や動員学徒、女子挺身隊などが投入されていた。軍需工場なのに捕虜を優遇し過ぎるのではないか、と調さんは会社内部で批判された。調さんは捕虜の管理上、会社側に対していろんな要求をした。 「捕虜は敵国人じゃないですか。そんなにしなくても」
会社側の幹部は言った。「捕虜も人間である」という調さんの主張は当時の日本社会には通じなかった。会社側が調さんを問題視したため、下松警察署の特高係が調さんの行動を監視するようになった。「下松第七派遣所長調正路は、俘虜取扱規則があるに拘らず、捕虜の人権を重んじて、病人に十分に配慮し、日常の食物配給に心をくだいた。何かにつけて捕虜を優遇し」と報告している「特高月報」。
笠戸工場が軍需工場に指定されると、徳山憲兵隊から憲兵が来て巡視するようになった。彼らは会社側の接待を受けたりしているうちに、調さんのことを問題にするようになった。まもなく徳山憲兵分隊に呼ばれて取り調べを受けた。「之等俘虜は、極めて怠慢にして、常に三十名乃至五十名の休労者ありたるのみならず、その態度傲慢にして、警備員の指示に従わず、事毎に反抗的なれば、山口県において内偵したるに、調中尉は基督教信者にして、其の心中深く抱持せる外国崇拝の観念に基き、必要以上の厚遇を為したる結果なること判明」と、広島憲兵隊長に報告した。
「とにかく私を牽制するためでしょうか、あることないこと、会社側が憲兵に告げ口しているんです。食糧のこととか、捕虜に親切にし過ぎるとかです。親切にし過ぎるということは敵国に通じているんだと。クリスチャンだから機密を洩らしているだろうと責められました。問題はお前がクリスチャンだからだということです」
報告を受けた広島憲兵隊長は、福岡俘虜収容所本所長菅沢大佐に対して、「調中尉はクリスチャンであるから俘虜収容所の派遣所長として不適格であり、止めさせるべきだ」と通報した。憲兵隊の報告を読んだ菅沢大佐は、「憲兵が俘虜収容所の人事に干渉することは、軍の統帥権の干犯になる」と言って怒り、陸軍省に報告したので大問題になった。菅沢大佐はヨーロッパ各国の駐在武官を勤めた国際問題の専門家だった。陸大に在学中に東北大学英文科に国内留学するなど、陸軍内部では知性派として信頼があった。陸軍省としては、菅沢大佐から統帥権の干犯だと指摘されたのであわて、広島憲兵隊と笠戸工場を調査した。ことの発端は会社側から生じたものであり、捕虜の管理に対して不当な行為に出た会社に、陸軍が管轄している捕虜を使用させることはできないという結論を出した。まもなく菅沢大佐から調さんに命令書が届いた。「俘虜収容所側はジュネーブ条約を遵守して、俘虜収容所規則によって管理しているので問題はない。笠戸工場に、捕虜の労働力を提供する必要を認めないので、第七派遣所を閉鎖する。捕虜全員を連れて福岡俘虜収容所本所に引き揚げてこい」というものだった。
一九四四年(昭19)六月四日、下松第七派遣所が閉鎖されると、調さんは福岡俘虜収容所の勤務を解かれ、元の部隊に戻ってきた。沖縄戦後、アメリカ軍の本土上陸が迫ると、部隊は鹿児島県志布志に出動して警備に当たり、八月十五日南九州で敗戦を迎えている。福岡俘虜収容所折尾第六分所長末松中尉も福岡の西南学院を卒業したクリスチャンだった。福岡銀行に勤めていたが、福岡第二十四連隊に入隊、幹部候補生となり将校になった。一九四三年(昭18)八月二十日の深夜、オーストラリア人のアービンが収容所を脱走して、三日後に八幡市(現北九州市八幡西区)内で逮捕された。八幡警察署で訊問した後、第六分所に帰る途中、折尾の雑木林の中でアービンは銃殺されている。戦後、BC級戦犯として逮捕され、菅沢大佐と第六分所関係者三人、合わせて四人が絞首刑の宣告を受けた。横浜裁判が始まると、第六分所に収容されていた元捕虜たちから末松中尉に助命嘆願書がたくさん寄せられたが、命令者ということで最終的には巣鴨で処刑された。
「もし自分が第六分所長であれば、同じように立場上部下に銃殺を命令したに違いない」と調さんは言うのだ。その時の運不運というよりも、軍隊組織は個人の思想信条とか宗教とかは全く別の世界だった。調さんの場合も憲兵隊事件で国際条約に詳しい菅沢大佐の陸軍省への報告がなかったとしたら、どういう結果になったか分からない。
「私は日本国内で捕虜をお預かりしたということ。戦場へ行って殺すか殺されるかの体験ではない。戦場に行けば敵兵を殺す罪を犯すことは明らかだ。戦闘になれば必ず殺していたでしょう。内地において俘虜収容所の職員として置いてくれた神に感謝しています。私が捕虜に対して親切にしたのは、クリスチャンだったからだと会社側も憲兵も主張したが、彼らは俘虜収容所のあり方に余りにも無理解だったし、相手の捕虜の置かれている立場を考えたことがなかった。おたがい国のために命を懸けて戦い、結果的に戦争捕虜という境遇に落ちているだけで、自分で求めたものではないんです。」
当時を振り返って調さんは語るが、キリスト教の信仰を基にした、彼の持つ人間性のゆえであろう。戦争末期、軍人が威張り散らす狂気のような時代、敵国人の捕虜を人間として処遇した調さんの行動に私は本当の意味の勇気を教えられた。
さらに詳しい内容に関しては、「インドネシアの記憶 -オランダ人強制収容所-」(林えいだい著 燦葉出版社)をお読み下さい。
★転載の許可を下さった、林えいだい氏と調正路氏に心から感謝致します★
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